日本茶の歴史は抹茶の歴史、と言っても良いと思います。
今では誰でも簡単に手に入り、飲めるようになりましたが、抹茶は元々薬として伝来したものです。
その由来は中国にありました。
伝説の皇帝神農が薬効を求めて様々な植物を自分噛んで試し、毒に当たってしまったときに「チャの葉を噛んで毒消しにした」と言われているのです。
神農皇帝は伝説ですが、今回は抹茶の歴史について5つの時代区分に分けて、簡単に駆け足でご紹介したいと思います。
今では世界中で知られる京都の宇治抹茶ですが、「抹茶発祥」ではありません。そのあたりにも触れていきます。
抹茶の歴史を簡単にたどる5時代
古代
学校で「遣唐使」とか「大和朝廷」とか「空海」とか「最澄」とか習う時代(奈良・平安時代)。
中国の最新の文化に憧れていた天皇や貴族達が「漢詩」などと同時にお茶の文化を留学僧からもたらされました。
「日本後紀」に嵯峨天皇に永忠が梵釈寺にてお茶を奉った、という記述が残っています。
これは、当時の中国から持ち込まれた「餅茶」ではないか、と言われています。餅茶とは、チャの新芽を蒸し、臼でひいたものを餅状に固めて乾燥させ、飲む時に必要な分だけを焙って薬研で粉にしたものです。
中世
学校で「幕府」とか「戦国大名」とか習う時代(鎌倉、南北朝、室町、安土桃山時代)。
臨済宗開祖である栄西は宋からの帰国後、長崎の平戸と福岡と佐賀の境にある「脊振山」に茶園を開き、「喫茶養生記」という日本初の茶の専門書を著し、お茶は養生の仙薬、良い薬ですよ~と布教してまわったんですね。
将軍さまにも会いまして、深酒の癖のある将軍源実朝に薬としてお抹茶を差し上げたという記録が残っています(「吾妻鏡」:幕府の公式記録)。
その後、栄西からチャの種子をもたらされた華厳宗の明恵上人は、京都栂尾高山寺に茶を植えました。
鎌倉時代になると、お寺さんだけでなく、社交の道具として武士階級にも、お茶が浸透していきました。
そして南北朝時代になると、数種のお抹茶を飲み比べて産地などを当てる「闘茶」が流行しました。
近世
学校で「織田信長」とか「豊臣秀吉」とか「徳川家康」とか習う時代(安土桃山、江戸時代)。
村田珠光は、それまでの贅沢な唐物を使い、大勢で参加する「唐物台子」と呼ばれるスタイルをやめ、質素簡略の「侘茶」を創始、これを受け継いだ武野紹鴎、その弟子の千利休によって「侘茶」は大成しました。
やがて「茶の湯」は豪商や武家の社交、処世術の一つとして欠かせないものとなりました。
近代
学校で「明治維新」とか「文明開化」とか習う時代(明治、大正、昭和初期くらいまで)。
明治維新により、幕藩体制が崩壊。
それまで武士や公卿たちから守られてきた特権階級だった茶師も、その販売先を失った茶業界も大打撃を受け、多くの茶師が廃業しました。
ところが!
第二次世界大戦が始まると、抹茶の生産量がぐっと増えます。2倍近くもです!
しかしこれは決して茶道用や食品加工用抹茶の話ではありません。
実は軍部が、抹茶の栄養素に目をつけ、将兵の疲労回復やビタミン類の補給、眠気覚ましにと「軍用基本糧食」に選定されたためでした。
現代
学校で「終戦」とか「文化〇〇(文化住宅、文化包丁、↑文化人形)」とか習う時代(終戦~現在)。
昭和20年、終戦を迎え、軍事用で必要の失くなったお抹茶はまたまた衰退します。
ところが!
ここ近年の抹茶ブームは世界中に広がっていて、食品加工用抹茶も含めると、現在の生産量は、抹茶ブーム以前の昭和40年代の約4.6倍にも増えているんだそうですよ!
抹茶の由来は中国にあった!「大観茶論(だいかんさろん)」に書かれたのは初の茶せん!
中国で最初に書かれたお茶の専門書「茶経」には、餅茶を飲む時には焙って薬研にかけ粉末状にし、それをさらにふるいにかけ、匙を使って熱湯に入れ沸騰させる。
沸騰したら、塩を入れかき混ぜ、ひしゃくで茶碗に注いで喫する、とあり、すでにうっすら抹茶に近い感じが出ています。
次に、日本で最初に書かれたお茶の専門書「喫茶養生記」には、その中の製茶法を見てみると、『茶葉を蒸して焙り、瓶にいれ密栓をして保存する。』
また、『茶は匙に二、三杯程度を使用する。』と書かれてあり、これが抹茶由来の証拠です!と言うには少し弱いのですが、栄西が学んだ当時の宋(中国)ではバッチリ抹茶法(薬研や臼を用いて茶を細かく砕き、熱湯に入れかき混ぜて飲む方法)が流行っていたので、その辺りからも現在の抹茶と同じような感じで飲まれていたのでは?と推測はできるのです。
しかしその後、徽宗皇帝が著した『大観茶論』にはお茶を混ぜる撹拌用具として『茶筌』という言葉が登場!!
もちろん、今の『茶筅』と「せん」の字が違うように、見た目も竹製のササラ状(先を細かく割いただけ)の簡単なものだったようです。
しかしながら、ここまでくると、抹茶の由来は中国である、と断言できそうです。
ところが!
これだけ抹茶先進国だった中国ではこの抹茶法は廃れてしまいました。
中国に追いつけ追い越せだった日本の方が、今や独自の抹茶文化を持っているのは、なんとも不思議な感じがしますね。
抹茶は元々お薬扱い!眠気覚ましに!二日酔いにも!!
栄西が宋(中国)で当時最新のお茶を体験し、本にまとめた「喫茶養生記」は、『茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山野之を生ずれば、その地神霊なり。』の書き出しで始まります。
お茶は健康や長生きの元になる不思議なお薬ですよ。
お茶が生える場所は、そこは神聖な神様が宿っておられる場所なんですよ。
と言ってるんですね。
また修行僧達にとって、座禅中の眠気と戦うのに、お茶の覚醒効果は重要!
中国の禅寺では早くから取り入れられていたお茶の儀式を、日本でも取り入れよう!ということで「清規」と呼ばれる寺内規則にお茶を飲む儀式が加わりました。
京都の抹茶は宇治ではなく栂尾山高山寺の方が格が上だった!
京都、栂ノ尾山高山寺と言えば、鳥羽僧正(覚猷) 筆で有名な「鳥獣戯画」ですが、その境内に「日本最古の茶園」があります。
…と言っても今あるのは、後世になって作られたものなのだそうです。
もともとは、南北朝時代、『闘茶』と言って格の高いお茶を「本茶」それ以外を「非茶」と読んで、産地などを当てるゲームが大流行。
その「本茶」にこの栂ノ尾高山寺が指定されていたのです。
理由は栄西上人から受け継いだ茶の種子を大切に植え、丹精して育てた、由緒あるお茶だからです。
直弟子だった華厳宗の明恵上人はその後、このチャを宇治にも広めました。
それが現在の京都宇治抹茶へと繋がっていくのです。
まとめ
今回は、抹茶の歴史を簡単にご紹介!由来は?元々は薬だった?京都宇治は発祥じゃないの? と題し、抹茶の歴史を古代・中世・近世・近代・現代、と5つに分け、駆け足でご紹介してみました。
抹茶の由来、初の茶せんが登場する「大観茶論」、元々薬として眠気覚ましなど薬効を期待したものだったこと、京都の抹茶と言えば今は宇治ですが、昔は栂ノ尾がナンバーワンで格上だったことなどにも触れました!
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!!